”A Normal Life , Just Like Walking”

小説書いて、メルマガ出して、文学フリマで売る。そんな同人作家皆原旬のブログ

昔の失敗を蒸し返して、また胸が痛い。

書類を整理していて、以前受け取った、
請負先の社員から直属の上司に宛てられた
メールのプリントアウトを、久しぶりに見つけて、
あの頃の思いが蘇って来た。

「私の指示を聞けない、単純な仕事もできない○○さんとは仕事ができません」

胸が憤りであふれたかと思った一瞬の後、
むなしさに胸が痛み、
挙げ句の果てにへこんでしまった。
そんな思い。

その頃、私は今まで担当していたシステムを
新しいシステムに置き換えるプロジェクトに
参加、新システムでのトラブルも無くなり
プロジェクトの解散、保守体制への移行のめどが
立った頃だった。

プロジェクト開始当初の担当は、データ移行。
これまでのデータを新しいシステムに
移し替える作業の担当だった。
うまく事が運べば、
JAVAのプログラムも担当させてもらえるという話で、
私は、大いに期待し、
また、JAVAの学習にも熱を入れ、
チャンスをうかがっていた。

しかし、実際は悲惨なものだった。
集められたメンバーは、

社歴の長く他言語での経験は豊富だが
JAVAの知識が、一夜漬け並の
二週間程度の講習のみの者、

社歴はなきに等しい、このプロジェクトのために
採用された、少なくとも他社での経験がある者。

現行システムに関する調査・開発をする
現行システム担当者。(私ほか数名)

JAVAでシステムを作る以上技術的な問題は、
JAVA経験者にリードさせるべきだったのだが、
社歴の長い者の方が、発言権があったために、
よかれと思ってなされた技術的提案は、
たいした検討もせず、
「誰もやったことが無い」という、
未経験者多数の状況では奇妙な理由で
ことごとく却下された。
今思えば、責任者不在はこの頃から顕著に
なって来ていた。

当然、開発の現場は混乱を極め、
JAVA経験者には業務の情報が、
JAVA未経験者には技術的サポートが不足し、
あれよあれよと言う間に遅延をきたし、
納期を延ばさざるを得ない状況になっていった。

私の担当であるデータ移行の
準備作業においても、
私が「この調査結果の確認を」と
言っても誰も確認しようとしない状況や、
現行システムに関する質問を、
システムに私より長く関わっている先輩ではなく
自分が一手に引き受けている状況に
不安を抱きつつも、
担当分の仕事が終わったら、
残してもらっている分のJAVAをやるぞと
意を決してJAVAの講習に通うといった具合で、
危機感はあまり無かった。

開始から三ヶ月、遅れはでているものの、
幸い納期を延ばすことは出来た、
そんな状況で、多少手が空いたからと言って、
未経験者を担当に当てても、
かえって遅れを出しかねない状況ということになり、
残してあった分のJAVA開発分の担当を
はやばやと外された。
そして、データ移行に必要な技術ということで、
UNIX(AIX)のシェル、
SQLのストアードプロシージャ(DB2)
を駆使する、ジョブ管理兼務となった。

その後、新システムを
ユーザーにテストしてもらうようになっても
無理矢理リリースしたせいで、
トラブル続きで対応に追われ
勤務時間が300時間を越えしだした。
その頃から物事の判断の視野が狭くなり、
自己中心的となっていたようだ。

今思えばプロジェクト管理がまともに
なされておらず、担当者間の負担の不均衡や
モチベーションに対する配慮、
発見された問題が全体の改善につながらない等
突っ込みどころ満載の状況だったが、
私が、未経験者として最後に入ったこともあり
自分の技術的な問題ばかり意識する状態だったので、
全体としての問題より、
「私は技術では助けにならない」
と思い込み、
「少しでも他の人が休めるように、
簡単な単純作業は、率先してやろう」
で突っ走った。

その後、ジョブ実行担当を
一手に引き受ける状況となった。
ユーザーが使わない時間ということで
深夜に作業することになる。
昼はJAVAでプログラムは作って無いので
ユーザーサポートは出来ずに手持ち無沙汰になり、
夜は夜勤続きでモチベーションが上がらず、
ケアレスミスが増加する。

結果、プロジェクトがそれなりに終わりに向かう中でも、
深夜の勤務が相変わらず減る気配がなく、
一方で昼間はすることがほとんどないという状況になった。

問題が発生しているにもかかわらず、
他の人が私の作業に立ち会う回数は減り続け、
上司はもちろん、同僚もいないオフィスで、
一人作業するという状況が続いた。
つまり、私を含めた全ての関係者が、
責任放棄し続けたである。

「みんな同じ」
と思っていたために社の上層部が
私が問題を起こしていると
思っていると感じても、
「現場(の人)はわかってくれている」
と気にはしなかった。

結局、プロジェクトが解散する前に
離脱・離職したのが、
十数名規模のプロジェクトにもかかわらず、
六名出た。
そして、私はプロジェクト解散と同時に
保守担当としては残れずに、
社内失業者となった訳だ。

先のメールを受け取った上司に
指摘されるまで

「おれが、やるしか無い」

と、全責任を負ったかのような
奇妙なプライドにしがみつき、
凝り固まっていたために、
素直に指示に従えなくなっていたのだ。

職場を離れる時に、メールの主は
「すみません、引き止められなくて」
と言っていたが、
あのときは認められなかったが、
メールの指摘はは至極正しかった。
私が、弱かっただけである。

首を切られたのは実際のところ、
JAVA開発部分の担当が無いために、
トラブルがあっても呼ぶ必要がないため、
一番切りやすかったということでしかない。
その件はメール主の権限外のこと、
いわば致し方なかったことなのだ。
逆に、ある人を保守担当から外す為に
送り込まれた人もいるのだから。

この一件で、私の中の
何があっても、正しくありたい。
という意識がより強くなったのを感じる。

周りに流されたくないなら、
正しくなくてはならない。

逆は破滅を招く。

周りに流されるのなら、
正しくなくていい。

わけは無いのだから。