”A Normal Life , Just Like Walking”

小説書いて、メルマガ出して、文学フリマで売る。そんな同人作家皆原旬のブログ

天才に追いすがるか、平凡に希望を見いだすか

最近、嫉妬していることを強く意識する。
ダーク・タワー」のスティーヴン・キングや、
仕事の速い後輩、有名どころに勤務している同窓に。

30歳を迎え、
俺の中のわだかまりとの対話が、おさまったことで
俺の進むであろう道がやっと見えてくるようになった。
そしたらとたんに他人との落差に気が回るようになったということか。

恋愛には相変わらず行動が伴って行かない自覚が有るし、
仕事は頑張ると人の声が聞こえなるのも変わらず。
小説は以前より量を書けるるようになったが、
その量も月刊誌連載レベルにはまだまだだ。

落ち着いた日常に落ち着かなくなるときも有るということだ。

そして、聞こえてくる同年代の活躍。
だから、
天才に追いすがれていないし、
平凡に希望を見いだせないと
感じるのだ。

天才は何故に天才か。
早くに一つの道に乗るからだと思う。
成熟に必要なモラトリアムを必要としない人々が天才。
早熟すなわち天才という捉え方は
あながちでたらめではない。
常に同年代最長の経験者であり、
同じ経験者より肉体的に恵まれている存在。
社会の彼岸で輝く星々だ。
社会の価値観や評価とは違う世界で生きている。

生まれ持った才能には勝てないと言うが、
才能=一つのことをやり続ける力と考えれば
経験を積み続けることで、追いすがることは、
十分可能だと考えられる。
天才の逸話の多くに幼年の頃から適性を示したとするのが多いこと、
天才優位とされる傾向が身体的ピークの縛りが強い
スポーツ選手、演奏家等に強いことから、
身体的能力の影響を受けない分野でなら、希望を持ってもいいのではないか。
無論、差が縮まる訳ではない。
が、同じところに立てるかもしれないと希望するわけだ。

英才も凡才も可能な範囲で社会の期待に答える存在という点では同じ存在だ。
英才はもっぱら国や大企業の中枢を担う人を
さすことが多いので組織運営力が有れば英才、
なければ凡才ということでいいだろう。
強烈な主体性が無い代わりに、
成果を上げれば社会的に認められ、
生活力という点では安定的な道を選べる。
ただ、誰もが価値を認めることで
生計を立てるには、競争がきつくなりがちである。

もちろん、天才的生き方と英才的生き方の
組み合わせは有りだろう。

本業・副業として使い分ける。
英才的実務者が天才的素質で差別化を図る。
天才的実務者が英才的素質で差別化を図る。

結局、これまでまだ大人じゃないからと放っておいた
一人は嫌だが、一緒くたにされたくないとか、

どう生きれるか、どう生きれるかとか

いった生き方における矛盾にどう折り合いをつけて行くか
という大人しての成熟を問われているのだ。